〇 花見

〇 近年の瀬戸内海島嶼部島の様子

 

花見

花見

貴族の遊びとして生まれた「花見の宴」は、奈良時代に中国から伝わってきたもので、初期には中国から伝わってきたウメの花が対象であったらしい。平安時代になると、花見は貴族ばかりでなく「農民の楽しみ」として野山でふつうに見られる日本自生のサクラを愛でるような文化に進化したようだ。「農民が酒や食べ物を持って自生の花の咲く小高い山にのぼり、飲み食いして1日を楽しみ過ごすことで、互いの日頃のつながりを確かめ合い深め合った。」と解される。江戸時代の中ごろになると、上流社会では、花見が権威の象徴になった。また、このころになると、花見は貴族、農民にかかわらず、一般庶民の楽しみとして定着した。今も、「新宿御苑」で歴代の総理大臣主催の「花見の宴」が開催されているが、これは、吉田総理大臣に始まったと記録されている。しかし、もとは貴族の行事からなる皇室の行事に発するから、平安時代から延々と続いている上流社会の宴の流れと解するのが適当と考える。権威の象徴として開かれた歴史に残る「花見」は、戦国時代の末期に行われた秀吉の「醍醐の花見」であろう。

佐東地区をはじめ、瀬戸内海沿岸地方には昭和30年ころまでは、前述の「農民の楽しみ」と同じような風習があった。同じ地区ではいよいよ農作業の一年が始まるという4月、それぞれの地域にある小高い山に登り、飲食を楽しむという行事である。1カ月遅れの「節句」と称しているのは節日に供する祝祭の供御を意味し、自生の花が咲き草木が芽吹くこの期に、自然神の御前で飲食を通じて1日楽しく過ごし、親交・絆を深めたのであろう。ありていに申せば、花見は、錦の御旗を掲げて農業共同体を維持し、そして個々の居場所をたしかめるための行事として大きな意義があったと考えられる。したがって、花見は、その土地に育つサクラそして園芸種であるサトザクラといろいろな種類、品種のサクラを鑑賞していた。しかし、花よりも自然の中で共有の喜びを確かめ合う時間であったと思われる。

このような風習は瀬戸内及び沿岸広範に残っていた。長崎県を故郷にする高齢者の言によると、長崎県でも同じような行事をしていたというから、推測に過ぎないが、日本中広く行われていた行事かもしれない。収穫が終わった秋には「どろ落とし」と称して、収穫への感謝と慰労を兼ねて紅葉のもと、それぞれのグループが都合に合わせて同様の方法で楽しんでいた。しかし、秋の収穫期は作物によって若干のずれがあるため、特定の日を設定することはできなかったのではないだろうか。

経済成長期に入るとともに農業従事者が減少し、農作業に結びつく共同作業の必要性が薄れた。また、所得差も生じ、祭事とは関係なく、それぞれの都合と好み、家族、仲間、職場という個々のグループが好みの場所で群咲く豪華な花のもと飲食を楽しみ、絆を確かめ合う傾向が強くなり、花見の形が大きく変化したように思われる。

 

 

昭和40年ころの東北地方の「芋煮会」からは、秋の収穫が終わるころ(日にちは特定しないが)、おいしく育ったイモ(里芋)を持ち寄り、収穫祭を意味する宴を地域のみんなで行っていた。それが、次第に個々の仲間同士で催す行事に移ってきたのではないかと思う。

広島では以前からこの佐東・八木・梅林地区は梅の名所、花見の名所であった。この講座の目的は、この地区の川が流れ、ウメが咲き、サクラがほころぶ「せせらぎ河川公園の魅力発見」である。その昔、広島湾は今の太田川の奥深い可部地区にまで入り込んでいて、大林に貝塚があるところから推察すると、貝のとれる場所であったことが推定される。そして、八木・佐東・梅林地区は阿武山系から流出する土砂でできた小扇状地に当たるらしい。

梅は中国から入ってきたもの、それなのにこの地は梅林地区という。「梅林」の地名の由来を尋ねた。広島市教育委員会の資料では、元八木城城主香川家に残るという資料及び地元の古老の話をまとめると、

真夏の暑い日に今では阿武山の小高い場所となる道を、疲れきったような坊さんが通りかかった。そして一軒の農家の庭先に腰を下ろして休んでいた。家の主は、湯呑に1個の梅干しを入れ、白湯を注いで接待した。坊さんは癒され、接待に深く感謝した。そして湯呑から梅の種を取り出して、「この種を植えてみなさい」と言われた。塩漬けにされた梅ではあるが言われるままに種を植えた。すると春に芽を出し、大きく育った。ところが、大きな洪水が発生し、梅の木も土砂共々流されたが、流れついてそこに根付いてみごとな梅林となった。今の梅林地区である。疲れを癒した梅であるが、食物腐敗防止など「梅干し」の殺菌の効能が貴重なものとして花共々貴重なものと考えられていた表れではないだろうか。

ちなみにこの坊さんは、弘法大師であったという。守護に並ぶ権威があったという可部の福王寺の開祖は空海である。つまり可部への道中にあった弘法大師であったというから、話はよくできている。安芸の守護であった武田氏(甲斐武田氏の流れを汲むとはいうが、信玄公よりも数100年古い)は曹洞宗であるが、確か武田氏の墓地は真言宗の福王寺にあったと記憶しているが・・・。 

また、梅林地区が小扇状地であることをも物語る伝説でもあると思う。


近年の瀬戸内の島嶼部の様子

近年の瀬戸内沿岸の植生 

日本列島の植生は、気象条件などによって自然の成り行きと居住する人の必要性、利便性による植栽によって変遷している。いわゆる代償植生である。つまり、スギは日本固有の樹木であり、マツも日本に自生していたが、日本の山々がスギ、マツに覆われっていたわけではなく、元来、日本列島の多くは、照葉・広葉樹に覆われていたという。しかし、製鉄の聖地島根県横田町の資料から製鉄用(たたらの製鉄)熱源として大量の木材が必要であったため、中国地方の山々の木材は根こそぎ伐採供給され、それは九州にまで及んだとの説明があったように思う。また、瀬戸内海では造船の材も必要であり、建材も含めて木材の必要性、利便性のある樹種を植樹されたが、1年を通して太陽光エネルギーを効率的に利用できる常緑樹に代えられたのではないかとも推測される。そのため松、杉、ヒノキ等の樹種が植栽された結果、1970年ころまでは、瀬戸内海の島嶼部はほぼ松の翠で覆われていた。また、この八木・佐東地区、中国地方沿岸部の山々でも松、杉、檜を主とする自然林、スギ、ヒノキの植栽林となって、山は年中緑であった。山にサクラは皆無ではなかったが、わずかにヤマザクラが咲く程度であった。

1970年ころから瀬戸内海島嶼部から松枯れが始まり、この現象は西日本全体に広がった。幅ひろく調査された結果「マツクイムシ」による被害と判明したと報道された。松くい虫であるマツノザイセンチュウ(またはニセノマツノザイセンチュウ)の媒介者であるカミキリ虫(マツノマダラカミキリ)駆除のため、ヘリコプターを使用して広範囲囲に殺虫剤(スミチオン)が空中散布されたこともあった。しかし、小鳥など多くの生き物の死骸を見たとの話題(確認をしてはいない)はあったにもかかわらず、マツ枯れ防止に大きな効果があったようには思われなかった。昭和20年~30年ころにマツクイムシによるものと思われる松枯れが全くなかったわけではない。在来のセンチュウによるものであったかもしれないが、冬になるとマツの立ち枯れ、枝枯れはよく見られた。燃料不足の時代であったから、このようなものは株元から切り倒され燃料とされた。結果的にマツノザイセンチュウの徹底した駆除にもなった。ところが、経済成長期を迎えた日本では、枯れたマツは利用されず、放置された。一気に松枯れが拡散し、1970年代の終わりには山々の景色が一変した。その後、山の植生は照葉樹林へと変化した。山々は季節によって、新緑から青葉そして紅()葉へと移り変わる多彩な景観を見せる光景に変貌した。日本列島本来の古代の状態に帰ったのだと指摘する人もいる。広葉(照葉)樹林帯である。その中に、春には、山々を白く染めるサクラの花が目につくようになった。