サクラ


その1

日本に自生する(野生の)サクラは9種類とされている。ヤマザクラ、オオヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラ、チョウジザクラ、マメザクラ、カスミザクラ、タカネザクラ、ミネザクラである。中国南部、台湾原産のカンヒザクラは、琉球列島や鹿児島県にも野生化している故、これを入れて10種類とする考えもある。突然変異種に加えて交配種等の園芸品種は、300~400種に上るそうである。

ここで取り上げるサクラは、バラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属のサクラである。非常にややこしい。しかし、日本のサクラ亜科はサクラ属だけで、スモモ亜属、モモ亜属、サクラ亜属、ウワミズザクラ亜属、バクチノキ亜属5亜属に分けられている。

さて、野山に自生していたサクラも、奈良時代の7世紀後半から8世紀には栽培下にもあったと思われる。万葉集に「屋戸にある桜の花は・・・」、「・・・古き垣内の桜花・・・」等と屋敷内に植栽されていたことが詠われているからである。平安時代には一重のヤマザクラ系から八重に変化した奈良八重桜がある。「古の奈良の都の八重桜・・・」である。この八重桜が、「八重桜は奈良の都にのみありけるを、この頃世に多くなり・・・」(徒然草)と記されて、世に広まったようである。また、この頃エドヒガン系のサクラから変化した枝垂れ(しだれ)桜が生まれ、さらに鎌倉時代にはオオシマザクラ系の「御車返し」(おぐるまがえし)、仏を抱く「普賢象」(ふげんぞう)という八重咲が生まれたとある。八重咲きとなる変異は、しべが花弁に変じた花であるから、種はできない。つまり実生で増殖することはできない。1つの個体上に生じた突然変異(枝変わり?)を普及させるには、栄養生殖(接ぎ木、挿し木)という栽培手法が必要である。「月詣和歌集」(つきもうでわかしゅう)に「ならの八重ざくらを家のはなにつがんとて・・」と平安時代にはすでに接ぎ木の技術が伝えられていたことに驚きを感じる(中国からの技術の伝播とか?)。しかし、クリスチャンの友人に話したところ、西洋では2,000年前にオリーブを接ぎ木していたという記録があるらしい。

桜の品種も江戸時代にはすでに250種もの品種ができていたそうである。

広島市の江波山公園に八重ザクラの大木があった。これが、50年ほど前八重咲のヤマザクラの変種と認定され、エバヤマザクラと名付けられた。最近では、富山で100枚以上の花びらをつけるキク咲が発見され、新品種とされている。

自分のことであるが、2017年の春、サクラの公園を訪ねた。その時、変わった花びらの桜が咲いていた。雄蕊の1~2本が花びらに変化したものだ。このサクラも、接ぎ木してみたいものと思っている。 

追加

平成30314日(水)

630分のNHKニュース

「和歌山、奈良にわたり生息するサクラの1つが新種であることがわかり、クマノザクラと命名」との報道があった。

もしかして、日本では10種目(11?)のサクラかもしれない。平成30年という時期、サクラという種しかもなら近辺という状況下での新種の発見は、自然の奥深さに畏敬が感じられる。


その2

早春、タムシバに続いて霞の如く山々を白く染める花が目につくようになってきた。花が咲くとともに葉が伸び開く花「ヤマザクラ」である。

サクラの最も有名な景勝地のひとつ、吉野山のサクラは、野生のヤマザクラと言われている。ちなみに、広島県下の巨木サクラは、幹周4mを超すものとしては、エドヒガンザクラでは庄原市総領町、比婆郡東城町、庄原市西本町にあるようだ。ヤマザクラであれば、比婆郡東城町、府中市斗升町にある。双三郡布野村、比婆郡高野町には幹周3m以上のシダレザクラがある。そのほかにもあちこちからの情報があるが、いずれも県北である。 

江波山にある新種エバヤマザクラの幹周は、3mということである。

近年、サクラの開花が日本列島を南から北へと北上する状況を「サクラ前線」として報じられるが、各地の公園に植えられている「ソメイヨシノ」の定まった樹を「標準木」としたサクラ開花の情況を報じるものである。南から北への気象の移動を見せてくれる楽しい知らせである。標準木として「クローン樹」(ソメイヨシノで説明)であることは非常に都合の良い表示である。

サクラの花は鑑賞することばかりが目的でもない。生活の中、まず農業との関連は重要である。多くの植物は、春から活動を始めるが、サクラの開花・芽だしは、気象の情況を「みえる化」してくれる。日本では、今もサクラの開花が農作業、園芸の重要な「標」とされているが、サクラの花で豊作を占い、花の咲く時期をはかって「種を蒔く」、「田起こしをする」、「球根を植える」等々農耕の判断基準となって民族の生活の中にとけ込んできた。

サクラのサとは穀霊(穀物に宿る精霊)、クラとは神の座を表す。つまりサクラとは「田の神がお座りになる座」である。古事記にはサクラは、「木花佐久夜毘売(コノハナサクヤヒメ)」、木花とはサクラのことで、佐久夜がサクラの語源とも説明されている。 

また、古今集ではサクラが多く詠まれているから、サクラの花を愛でる風習は、すでに出来上がっていたと考えられる。そしてサクラは、花・葉の利用、樹皮・材の利用もある。装飾用と判断されているサクラの樹皮が巻かれた弓が出土しているそうである。最近でも、茶筒の模様に、サクラの皮がよく用いられている。


 その3

日本人は、「桜は日本の花」と感じている人は多いと思う。「桜」を表現するにしても、学術的には動植物名はカタカナで記すことになってはいるが、「サクラ」は「さくら」または「桜」と書くのがよく似合うようにも感じる。

昔、サクラは、1本あるいは数本の桜を対象として観賞する場合が多かったようだ。近くでは、五日市町の「神原の枝垂れ桜」のように1本の花を愛でるのである。自生のサクラを楽しむにあたっては、生育環境によるいろいろな違いがあるのは当然のことである。西行は、「ねがわくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの 望月の頃」(山家集)とサクラの花を愛したようである。しかし、サクラの花は、その美しさから人を惹きつけているだけではなく日本の農耕文化に溶け込む要素があったからと思う。1週間程で一斉に散りゆく「散る桜」の美を武人の美徳に重ねた「美意識」に置き換えて見つめるようにもなった。細川ガラシャは「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と己が命をサクラの花に置き換えて閉じている。

江戸時代になると、「しきしまの大和心を人とはば、朝日に匂う山桜かな」(本居宣長)とサクラの美しさこそ日本そのものと表現している。

一斉に散る桜の性質を武士階級の武人は桜の如くいさぎよく散れ」という「生き様」を語るに都合の良い方便であったのかもしれない。生き物の本性としては「死にたくないと」というのが当たり前のことである。しかし、「ますらおは、戦いに臨んでは勇猛であろうとし、老いてはいさぎよく散りゆくこと」を「美」と位置付けた。まさに「散る美学」である。「武士道といふは、死ぬ事と見附けたり」と表現される。「死ぬ事」を桜の花の「散ること」に置き換えると、死ぬことは美しいことに通じている。「武士文化」を語るには、「花はみよし野(吉野のサクラ)、人は武士」あるいは「人は武士、柱は檜木・・・花はみよし野」と最高級の目に訴えるサクラで説明するのが最も語りやすことであったかもしれない。

さらに時代が下ると、「貴様と俺とは同期のさくら・・・」「・・・7つボタンはさくらに錨・・・」「散るべき時に清く散り 御国に薫れ 桜花」と歌われている。現在もなお国を守り治安を守る組織の自衛隊の徽章(記章)、警察の徽章(記章)には「さくら」が使われている。日本とは「さくら」であり、「さくら」とはまさに日本人の心を表した言葉になっていると思われる。日本人ほどさくらにとけ込み、愛着を感じている人の多い国がほかにあるのだろうか。「散るサクラ 残るサクラも 散るサクラ」が「生あるものは必ず滅す」しかし絶えず移り変わっているという「無常観」が感動を興させるのかもしれない。

興ざめかもしれないが、「散るサクラ」はサクラの木から考えると死ぬことではなく、次世代へのたくましく生きる生存の現象の一過程であるにかかわらず、人の心に深く受け入れられたのは、愛する人のためには命もかけられるという社会性生物の基本的思考ではないのだろうか。

 

重ねてあげたい、

「しきしまの大和心を人とはば、朝日に匂う山桜かな」

 

1~数本のサクラを愛でた古から、多くが群れ咲く桜を愛する現在の日本を考えると、基本に帰ってもう一度見つめてみたい、「我々を代表する人はもちろんのこと、多くの大衆も、軸のぶれない朝日に匂う国でありたい…ことを」


ソメイヨシノ

むかしむかし、・・・枯れ木に灰がふりかかると枯れ木は一面桜の花が満開となった・・・「はなさかじいさん」のクライマックスを物語る花、それはサクラである。その種は・・・

ソメイヨシノは、エドヒガンとオオシマザクラの自然交雑種であると言われている。伊豆半島で見つかった種間雑種に端を発すると図鑑にある。江戸時代園芸業の拠点であった江戸染井村(現東京都豊島区駒込)に持ち込まれたサクラから人工交配で作出したとの説もある。花色は、薄いピンク色で、新芽が動き始め、新葉に先行して開花する。枯れ木状態の枝が一瞬に花をつける。まさに「はなさかじいさん」の群れ咲く特徴を備えている。しかし、このおとぎ話は室町時代に生まれたはずだから、この童話のサクラはソメイヨシノではなくヤマザクラだったのでしょう。日本の津々浦々に大規模に植樹され、出来上がった数えきれないサクラの名所では、植栽されたソメイヨシノの群落が多い。サクラとはソメイヨシノと同義語と解する人もいるくらいである。各公園のソメイヨシノは、江戸時代にできたソメイヨシノが継代接木によって今に続いているものである。つまりは、日本全土を覆うソメイヨシノは、1本の桜の枝によってつながっているクローンである。したがって、近いエリアに植栽されたソメイヨシノは、一斉に満開を迎え、花吹雪となって一斉に散る見事な花模様を描く花である。各地の気候の変動をソメイヨシノの開花で判断することさえできる(サクラ前線)。このことこそがソメイヨシノの魅力でもある。しかし、良い面ばかりではない。野生種のような強さがなく、寿命も60年程度といわれている。また、同じ遺伝子を持つものであるだけに(他のクローン植物でも危惧されているように)、環境の変化、病気等による生育状況に大きなリスクを背負った不安定な要素も抱えている樹種といえる。幹回り3m近いソメイヨシノの巨木は、広島県内であれば広島市南区向洋の太原神社のものと聞いているが、ほかには知らない。育種によってつくられた多くの植物が抱える問題点を見えやすく物語ってくれるのもソメイヨシノではなかろうか。最近、よく「日本中のサクラはみなソメイヨシノである」と表現する記事を目にしたが、そのように解釈している人も多いようだが、現実はそうではなく、数多くのサクラの種、品種が楽しまれている。

 もっとも古いソメイヨシノは、福島開成山公園の古木で、樹齢147年、青森弘前公園の樹齢143年だそうである。

 

韓国ではこれまで「ソメイヨシノは、日本が韓国済州島から持ち帰った済州島の王桜という済州島固有の種である」と主張していた。日本人としては多少不快に感じる点ではあるが、詳細な状況を把握してはいないので、このようなことがあるとだけ記す。これを別にして、ソメイヨシノは、ゲノム解析からエドヒガンと伊豆のオオシマザクラの交雑種(交配種)であることが科学的に証明され、済州島の王桜(エドヒガン×オオヤマザクラの交雑種と推定される)とは別品種であると結論付けられた。それでも韓国は「王桜」だと主張し、ワシントンポトマックのサクラも韓国を起源とするサクラであると主張しているそうだ。「王桜」とはどのようなサクラであるか知らないが、ソメイヨシノによく似た花のようだ。その片親であるエドヒガンの分布域は、本州、四国、九州で、済州島も含まれる。

 

先のサクラの項で示したように、日本には野生のサクラは910種ある。しかし、原色日本植物図鑑(保育社)によると、サクラには多くの変種がある。加えて、多くの自然交雑種もある。また、タカネザクラとミネザクラ、チシマザクラは同じものだとの見方もある。ヤマザクラ、オオヤマザクラを同種とする説もある。生物を識別する方法は非常に複雑であることが感じられる。サクラを形態学的、生理学的、分子生物学的な異同を「種の定義」に当てはめると「種とは何か」と改めて問いたくなる。


ヤマザクラとソメイヨシノ

ヤマザクラは、褐色味を帯びた新芽の展開と同時に開花するが、実際には新芽の色は多様である。

最近、瀬戸内海及びその沿岸の山々に遠目にはソメイヨシノと見分けのつかないサクラが数多く点在する。山が松で覆われていた50年ほど前には山に桜の樹は稀であったことを考えると大きな違いである。山々に植栽したとは思われないから、おそらくは実生と考えるのが妥当であろう。サクラ等バラ科植物には、自家不和合成の高い種が多い。つまり自家受粉では実がつきにくいということだ。ソメイヨシノは実をつけないともいわれていた。ソメイヨシノの園は一面ソメイヨシノであるのだから、実をつけにくいことにもなる。確かに30年くらい前まではソメイヨシノに実がついていることには気が付かなかった。しかしながら、最近、サクラの名所でよく観察すると、黒く熟した実がついている樹がよく見られる。非常に多くの実をつけたサクラにも出くわす。その一つ、瀬戸内海大三島の大山祇神社近くの公園で手の届く場所まで沢山実をつけたソメイヨシノ(?)に出くわした。黒い数個の実(サクランボ)を口に入れてみた。昔味わったことのあるヤマザクラのの味が彷彿される。廃校となってしまった学校ででよく見かける光景だが、今治市伯方町伊方小学校の校庭にも今もソメイヨシノの古木がみごとなサクラで時を刻む。青葉となった5月のソメイヨシノの樹下を見ると、数本のサクラが芽生えている。もしかして、最近、山々で美しく花をつけるサクラは、ソメイヨシノとヤマザクラ系の自然交雑種かもしれない。現に約100m以内にはサクラの木のない我が畑にもサクラが芽を出している。とすれば、最近の山々に咲くサクラは、ヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガン等の遺伝子が交雑する変化にとんだ雑種なのかもしれない。確かめてはいないが、ヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンの交雑した多彩な品種ができてもおかしくはない。我が畑のサクラも、少し育ててみようと考える。サクラの時期、山陽自動車道を走っていると、自動車道沿いには、実生と思われるが、ソメイヨシノに似たものからオオシマザクラのような白色の花を咲かせる樹、褐色から緑の新芽をのぞかせる樹と多様なサクラが目を楽しませてくれる。 

このようなことをつらつら考えると、

ソメイヨシノを普及させた結果、

1 サクラも比較的容易に種間雑種ができる。

2 (容易に種間雑種ができることを前提にすると)ヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガン等の種の違いは変種程度の違いではないのかと思ったりもする

3 ソメイヨシノの植樹は、(良い悪いは別にして)間接的に国内における外来種を公然と導入したこととなり、結果、遺伝子のかく乱が起きている。

4 多くの育種作物とは反対に、サクラでは多様性が進み、耐性の進 化も急速に進んでいるのかもしれない。

等々を考えながら、今年からは、注意して観察したいと思う。

上段:  ソメイヨシノ       サクラ名勝地のサクラの実(未熟時)   多くの実をつけた名勝地のサクラ         

下段:  廃校となった伊方小学校のサクラ(ソメイヨシノ)    廃校となった小学校のサクラの樹下に芽生えた幼サクラ


オオシマザクラ

オオシマザクラは、「日本に自生する9種類のサクラのうちの一種で、伊豆諸島、伊豆大島に自生するサクラでソメイヨシノよりも若干大きめの白い花であり、ほのかな香りを漂わせる」との説明がある。国内の公園等に植樹されているところもあるという。せせらぎ公園「大禹謨碑」周辺にはやや大きめの白い花を咲かせ、開花とほぼ同時に緑色の若葉が開くサクラであることから、オオシマザクラあるいはそれに近いサクラと思われる樹種である。せせらぎ公園が整備されたのが昭和47年であるから、実生ではなく整備時に植えられたものと思われる。大禹謨周辺のサクラをオオシマザクラと仮定して、「なにか意図してオオシマザクラを植えたのではないか」と広島大禹謨の会の会長にお聞きした。「サクラの樹種について意図するところはなく、オオシマザクラを植樹したかどうかはわからない」とのことだ。開花した状態をよく見ると、白色系ではあるが、枝によってはピンクの強いものもあり、オオシマザクラとするには早計と考えた。別に、書物によっては、オオシマザクラは沿岸に生息するサクラである。あるいは、ヤマザクラの沿岸型であるとの説明もある。山陽自動車道わき、瀬戸内海の岩城島、伯方島のサクラの名所にも、数多くの白色の花を咲かせる樹が多くあった。

オオシマザクラは、多くの園芸品種(サトザクラ)を生み出したサクラとして有名なサクラである。その代表的なものがソメイヨシノであるが、アマギヨシノ、イズヨシノはソメイヨシノ出生を確かめる交配実験中に生まれた名品だそうである。また、カワズザクラは、昭和30年ころ発見されたサクラで、オオシマザクラとカンヒザクラの自然交雑種と推定されている。すでに述べたが、鎌倉時代にはオオシマザクラ系の八重桜、御車返し、普賢象が生まれている。また、平安時代には一重のヤマザクラから八重に変化した花として奈良八重桜が伝えられている。

今後は、地方に自生する一重、八重の桜も、個別に楽しむことになれば、それぞれの種の違い、進化の様子が見えてくるのかも知れない。また、いろいろな品種が注目され、サクラ全体にとっても大切なことではないかと思われる。サクラは、変種も品種も非常に多い。また、それぞれの種はそれぞれ美しい。

付け加えれば、オオシマザクラが優れた交配種を作出する親木となることを考えると「大禹謨碑」近くのオオシマザクラ系と思われるサクラにもその歴史が感じられる。

オオシマザクラの香りを話題にするが、人は植物の香りを好むようである。政争の具ともなった香木の蘭奢待、ジョセフィーヌを惹きつけたバラも有名である。香水の多くは、バラ、ゼラニウム等から精製され、多くが香水として楽しまれている。オオシマザクラの花にもほのかな香りがある。桜餅、ヨモギを使った草餅の香りは自然を感じさせ、なくてはならない食べ物の1つである。サクラの葉にはクマリン酸配糖体が含まれており、細胞が破壊されると配糖体が加水分解してクマリンとなる。クマリンはサクラ特有の香りを放つ。サクラの若葉を塩漬けにしておくと醗酵していつまでもさわやかなサクラの香りが楽しめる。桜餅に使われているサクラの葉は、主としてオオシマザクラであるが、企業的にはオオシマザクラの若葉を塩漬けにし、発酵保存しておいて、年間を通じて使用するそうである。オオシマザクラが桜餅に利用されるのは、葉に毛がないことによる。舌触りの不快さを避けたものである。桜餅に使う葉の主たる生産地は静岡県賀茂郡松崎町である。そこでは、若葉を採取するために低木に切り込んで大きな葉が生産できるよう栽培されている。個人が使う程度のものであれば、オオシマザクラの葉が入手できない場合、オオシマザクラ系の八重桜の葉で代用されている。

クマリンという成分はサクラだけに含まれるのではなく、キク科ヒヨドリ花属(秋の七草であるフジバカマ等)にも含まれている。平安時代には、フジバカマを乾燥させて枕に入れ、安眠をさそう香りとして楽しまれていたそうである。

 

クマリンという成分は、植物が自己防衛用に生成する物質であるが、非常に心地よい香りを漂わせる。しかし、殺鼠剤として用いられる物質でもあり、毒性成分でもある。したがって、多量あるいは毎日摂取するのは望ましくないかもしれない。そこで、桜餅は葉も一緒に食べるか、葉は食べないで捨てるか意見の分かれるところでもある。厳密にいえば、ウメ、銀杏、茶、柿、栗等々多くの植物の実、葉等の細胞にも自己防衛用の生物に対する毒性分は含まれる。しかし、わずかに含まれるこれらの成分は、人に好まれ、時にリラックスさせる物質である。サクラ餅を葉と一緒に食べる程度のクマリンは、人体に影響を及ぼさないという意見も多い。


チュウゴクミザクラ

 

5月の半ばころ、せせらぎの遊歩道を歩いていると、歩道沿いにある民家の庭に赤くたわわに実ったさくらんぼを目にする。この時期、広島では多くの民家の庭先で鈴なりのサクランボが目を楽しませてくれる。「ちょっとひとつ」と言いたくなるような美しくも可愛くもある実がペアーでついている。ヒヨドリ、ムクドリがこれを狙って辺りの木を飛び回る。

さて「さくらんぼ」とはサクラの果実であるが、「サクラの坊」の「の」が取れてサクラ坊そして「さくらんぼ」に変化したという。

「サクラは日本固有種で、海外のサクラはいずれも日本を原産地とする」と思っている人が意外に多い。なにしろサクラは日本の国花でもあるのだから・・・。しかし、春にアメリカ、トルコ等々を旅すると、やたらサクラが目につく、一重あり、八重あり…。アメリカミシガン州では世界のサクラの都はトラバースシティだという。世界にサクラは多く、世界中で果物として栽培されている。

日本にある野生の9種類のサクラは、果実がいずれも熟せば黒または濃紫色となる。昔、子供たちは黒いさくらんぼを競って食べていたが、今では口に入れてもかりそめにも「おいしい」とは言えない。それでは赤い実のサクランボは何者 ? 世界には赤い果実のサクラもある。果物として栽培されているサクランボは、甘い実のPrunus aviumと酸味の強いPrunus cerasusの2つの野生種に由来するという。そしてこれらの品種は1,000種を超えるようだ。セイヨウミザクラあるいはチュウゴクミザクラ系と思われる。チュウゴクミザクラの花期は早く1本でも実をつけやすい。一方セイヨウミザクラは、花期が4月で、自家不和合性が強いため、受粉には異なる品種の花粉が必要である。しかも、冬季に長時間低温にさらされる必要がある。このことから、遊歩道の近くで見られる赤いさくらんぼは果実よりも観賞用としてよく植えられる品種で、実は、やや小ぶりであり、広島という暖地、開花が3月半ば、しかも1本でも実を多くつける種である。自家受粉、暖地で実をつけるさくらんぼとしては「チュウゴクミザクラ」とするのが妥当と思う。

ちなみに、世界の「さくらんぼ大生産地」は、イラン、トルコ、アメリカである。トルコも、自国を世界一のさくらんぼの主産地としているそうである。。



ウメ

1 日本人に最も親しまれた植物「梅」

梅は莟(ふく)めるに香あり・・・ これは「梅の花はつぼみの時期でも、良い香りをただよわせる」という意味で、「栴檀は双葉より芳し」と同じ意味である。

梅の原産地は中国で、ミャンマーとの国境付近に昆明付近といわれている。杏梅という原始梅はチベット自治区内の海抜3500m地点に自生しているという。もちろんこの梅だけではない。蝋葉梅等原始梅の特徴を備えている梅も多いようだ。この梅が7世紀末に中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わったと云われている。古来、ウメは数限りなく、詠まれており、「古事記」「日本書紀」にはないようではあるが、万葉集には100首を超える。日本人は本当に梅が好きで、生活にとけ込み、花も香もそして何よりも日本の食にとけ込んだ、まさに日本を代表する植物と思う。

梅林を訪れると花に魅了されると同時にウメの花のすがすがしい香りは「癒し」で恍惚感に浸ることと思う。     

「東風吹かば においおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」(拾違和歌集巻十六雑春)

右大臣菅原道真が藤原時平との政権争いに敗れ、九州「太宰府」に配され、京を想い詠んだ詩だったと記憶している。道真は数ある詩の中に「うめの花、ぬしを忘れぬものならば、吹きこん風そ、ことづてもせん」とウメに対する思い入れは並々ならぬものがかんじられる。菅原道真の邸宅も「紅梅殿」と呼ばれていたほどである。

日本における梅の存在は大きく、腹痛であれば「梅干し」、弁当では「日の丸弁当」、

むすびの中身の梅の果肉もしかり。梅の酸味は非常に強く、味付けに加え殺菌効果は抜群で

あることを考えると、昔からの経験則に脱帽する。また最近は「梅酒」愛好家も多い。単梅を

ホワイトリカーで漬け込み、数ヶ月以上放置しただけのリキュールである。もちろん甘味とし

て氷砂糖を添加しているが、梅の香り、微妙な味覚に、酸味、甘味が相乗効果をなすさわやか

な飲み物に変身する。

 そのすばらしい梅の実も、青い時には「アミグダリン」というシアン化合物が存在する。

我々が子供の頃、食糧難の時代であっても、さすがに、青梅は口にはしなかった。酸味が強力

で口にすると顔がゆがむ程であることも、子供を遠ざけた理由かと思うが、実にシアン化合物の猛毒を有することが伝えられていたからかもしれない。

梅にまつわる話題は尽きない。「梅」と「鶯」は対語「花鳥」に近い形で使われる。故事の一つに、村上天皇時代、清涼殿の前の美しい梅の木が枯れてしまった。この梅に変わるものを探していたら、とある民家にあるすばらしく美しい紅梅が目にとまった。掘り起こして持ち帰ったところ、枝に「勅なればいともかしこしうぐいすの 宿はと問は いかにこたえむ」との短冊が結ばれている。梅にも勝るこの歌に主を尋ねたところ、「紀貫之の娘であった」と記されている。しかし、実際に梅にウグイスが留まるのだろうか。現にウグイスが梅の枝で遊んでいるのを見たことはない。ほとんどは蜜を求める「メジロ」である。食性から考えても「メジロ」つまり、「メジロ」が「ウグイス」に置き換わったのであろう。

梅の木は祭礼にも用いられる。奈良春日大社の春日若宮御祭(カスガワカミヤオンマツリ)の神行行列では梅白杖(ウメバズエ)という白杖が先頭を行く。この杖は名のとおり「ウメ」材の杖である。

  

2 ウメ・・・バラ科サクラ属ウメ(Prnus

 mume) 

mumeという学名がついている。ウメか

mumeの名が付いたと思われる。中国中部原産(長江流域)というが、日本には奈良時代以前に渡来しており、日本を代表する植物であり、食べ物ともなった。

 弥生時代の遺跡から、ウメの自然木、実の化石が発掘されるところから、稲作技術と同時に渡来したとも考えられている。

染色体数は 2n=16, 24 である。サクラ属の染色体基本数は8である。

ウメは紅梅、白梅と大きく分けられるが、3倍体もあることになる。花を見るための園芸品種は数100に及ぶという。ここに、梅は植えれば実がつくというものではないことが分かる。

まだ、雪のちらつく時期に雪の中で開花するうめ、たくましく、野性味があり、かつ、その芳香は、いかにも、日本人に好まれそうな雰囲気が感じられる。

  

好文   コウブン、ブンヲコノム

       学問や文学を好む」

       梅の別名「好文木」(コウブンボク)の略

 

晋の武帝が学問に親しめば梅が開き、やめると開かなかったという故事から